④3次面接から辞令交付

教師として考えること

 昭和○○年3月25日、いよいよ大学の卒業式でした。聞くと多くの国立大学はこの日が卒業式のようです。そしてこの日はこれから就職する友だちやどうしても都合によりもう1年大学に残る友だちもいて、久々に出会える機会でした。

 でもその日に私が受けた県の最終面接があったのです。さすがに最終面接をすっ飛ばして卒業式に出るわけには行きません。前日から実家に帰って支度をし、当日はスーツに着替えて会場である県の総合庁舎に向かいました。すでに内定合格はもらっているので気楽に行けばいいとは言われていましたが、そこでは4人が集められ、どうやら2人しか希望通り受からないということでした。「そんなことあるの」とは思いましたが、希望通りならないとは4月1日採用にならず15日とか5月とかになったり、違うエリアに行ったり、違う教科(数学とか技術とか)になると言うことでしょう。

 話が違う…とは思いましたが、とりあえず型どおりの面接を受けました。でも4人のうち1人は「日の丸君が代は血の香りがする」と言ったり、1人は「もし職員会で反対があるようなら代わりに校旗や校歌を歌って上げれば良い」と言ったりとあまり「型どおり」でない回答もありました。別質問にも上手く答えられない方もおられ、やはり、4月1日の辞令交付には1人がおらず、1人は別教科(数学)になっていました。無事理科教師として第一歩を踏めそうでした。もちろん、そのような面接での回答があろうとも採用はされ、最終的には4人とも理科教師として同じエリアで働き,同期同教科教員として何度も顔を合わせることになりました。

 面接の際に、私は県外に住所を移していたので「必ずこれから大学の地にもどって3月中に住所変更をしてから4月を迎えてください」と言われました。これは事前に分かっていました。4月1日に他県の住所にいたら県は赴任旅費を多く支払わなければならないのです。場合によっては10万円以上。それが住所変更をして学校の地元に移していれば1000円くらいになるようで、そうしたいから住所変更をすすめるとのこと。私は4月を越えてから住所変更をしたのできちんといただけました(今でもそうだと思います)。

 こうして何とか4月1日に辞令を受け取ることができました。エリアで小中合わせて14人でした。その後、どんどん採用され、結果的にその年度でそのエリアには30人近くの同期が採用されました。4月1日に県の総合庁舎で辞令を受け、その足で地教委で辞令。2日も3日も総合庁舎で新任研修でした。実際に学校に入ったのはかなり遅れました。でも学校での校務分掌を決めるときがかなり驚く様子でした。やはりこれが昭和の職場なんでしょうね。

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