このブログのテーマは教職41年を迎えている現役再任用教員が多忙を極め心も体も限界寸前の現役バリバリの先生方に何とか少しでも楽にそして楽しく面白く教員生活を続けてもらえたらということを願って書いているものです。「今だから言えるんだろう」「昔は楽だったんだろう」そんなツッコミが入りそうですが、昭和時代に教員になった者は毎日が本当にパワハラで、それをパワハラと感じずに過ごしていたものです。だから精神面が鍛えられた…と言うのでも無く、まあ鈍感だっただけかもしれません。ただ、教員が面白かったことは間違いありません。授業が、学級が、生徒指導までが面白く、できなかったことができるようになることに喜びを感じていました。そこに先輩がいて同期がいて、後輩も多く存在しました。その人間関係で持ち長らえたんだと思っています。理不尽なことを言う保護者や管理職もいましたが、それはそれでそんなものだと勝手にあしらっていた若い自分がそこにいたのでしょうね。これをどう今の先生方に伝えるかはとても難しいのです。パワハラに耐える力をつけることを推奨するわけにもいかないし、苦労をした末に明るい未来があるとも言えないし。まあ何はともあれ楽しみを見つけて嫌なことを忘れて日々過ごすことしか無いのかもしれません。
ただ、病気休職や早くから転職もしくは1日も早く辞めたいと退職を考えておられる方が何とぞ踏みとどまって明るく、楽しく授業をしてくれたらと願うばかりです。そのためにできることはやはり「省力化」でしょうか。可能な限り有限な時間や体力やお金を省き、なるべく早く帰って人間らしい生活をすることが一番です。ただ、今回はどうもそのテーマにならない記述になりますが。
多分4月2日の新任研修は午前中で終わり、午後は学校に戻ったのだと思います。その日は職員会議で大切な1年間の分掌を決めます。午前中に大まかな校長指示事項があり、目標などを決め、それぞれの分掌のトップが確定します。私は研修なのでこのときはいません。新任教員の登竜門は「警備防災」と式典の花生けでした。警備防災は避難訓練の指揮で、昨年も新任が行ったので、自動的に私になりました。花を私が生けられるわけでは無いので、生け花が得意の先生のもとで水を運んだり竹を割ったりと力仕事をします。
そして私は2年生に所属し、担任は無く、2年生4クラスの理科と1年生5クラスの技術を教えることになりました。技術はもちろん免許外です。それについてはまた後で述べますが、この学年所属が一番の肝でした。かなり「学年セクト」の強い学校で、それぞれの学年にボスがおり(主任とは限りません)、責任感をもって指導したり統率してくれますが、自分勝手やわがままも見受けられます。もちろん私は言われるとおりです。学年の分掌を決めるのに学校の会議室では無くて料亭に出かけます。そこに小部屋を3つ取り、各学年で分掌を決めて主任どうしが最後に3つを付き合わせます。この料亭というのがすごかったです。昼間からビールを飲みつまみを食べながら「生徒指導は○○さん、新任の△△君は清掃美化でいいな」などビールを飲みながら決めるのです。すでにできあがっていた先輩たちは「いいよいいよ何でももってきて」と大変気前がいいのです。これだとすぐに決まると思いました。
2時間くらい経って主任どうしが記録を合わせて「うーん、1年の時間割担当は□□さんだと思っていたのに」「それなら交渉してかえとこうか」など微調整に入ってすでに横たわっている□□さんに「ええか」と交渉します。そうやって分掌調整、人数調整、軽重調整を飲みながら行って仕上がったら校長の待つ学校に戻るのです。
これはすさまじい洗礼でした。さらにこれだけでは無く、「まあ酔い覚ましや」という名目で知らないうちに小部屋に卓が運ばれ、麻雀が始まります。4人が打ち、残った人が記録を整理します。分掌の目標や次回の職員会議の原稿も作ります。「新任君も入りよ」といわゆる「2抜け(麻雀の2位が抜けて5人目が入ること。1位と最下位は抜けられない)ルール」です。
学生時代のレートとは全然違い、まだ給料ももらっていないのにかなりの金額を徴収されてしまいました。酔い覚ましをして帰ったのは12時を過ぎていました。その後も「学年会」と言われたら18時頃からどこやらの料亭の席が取ってあり、麻雀が始まるのは通例で朝になってそのまま出勤したこともありました。これも今ではほとんど考えられないでしょうね。何の参考にもならない記事で申し訳ありません。


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